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カテゴリー「音楽」の12件の記事

東京ジャズ2010を嫌う

BSに加入しないと全部見せないよ、というセコくて陰湿なテロップを「二画面表示」を使って非表示にしながら、東京ジャズ2010の放映を見ました。1年前に「東京ジャズのジャズミュージシャン」を嫌う記事を書きしたが、ますます嫌いになってしまいました。

まず、Part 3の最後の曲(つまりは最後の一曲)は一体なんだったのか。女性だけのコンボが頑張って(たぶん)男だけでは出来ないような、否、やって欲しくないような「無理な2曲」が続き、まあそんなもんでしょうと流していたところ、アメリカあたりの場末の安酒場が似合う、ロック調のほとんど作曲などしていない「音」に載せ、オトコはオンナのxxではなくて、yyを見るのョなんて叫んだかと思えば、腰振りダンスを披露し、挙句にバスドラの上に乗って、、、最後には「同僚」もほとんど白け切った無残な終わり方でした。高名なボーカリストの娘らしきこのお方を止めることは誰にもできなかったのでしょうか?(そういえば、かのMt. Fuji Jazz Festival」にもニヤニヤ笑いながら追悼曲を脳天気に歌っていた、高名なジャズ評論家の娘がいたな~。)

このブログの読者の方よりご賛同をいただいた、私の嫌いな「天才女子高校生サックス奏者」も無残でした。最初は練習したからでしょうか、類似の女流(!)若手(!!)サックス奏者よりは上手そうな雰囲気でスタートしましたが、アドリブの途中でリズムとコードの両方を外し、周囲のメンバーが心配のあまり各自の演奏の質を落としてバランスを取り、やっとテーマまで行き着いて終わりましたが、あんなものを放送する価値なんかあったのでしょうか?1曲だけ放映していましたから、他はもっと酷かったんでしょうね。あれならまだ、今どうなったか知りませんが、去年のヒノテルバンドにいた沖縄出身の少年ドラマーのほうが素直かつ健全でした。

渡辺香津美もクルセーダーズも、ベンチャーズの来日公演や(後期の)ジャイアント馬場の試合のような状態でしたし、ラリーカールトンもほとんど意味不明な競演を私と同じ年の日本人歌謡曲バンドのギター担当者としていました。まあ、上原ひろみがやっとクビになったのは吉報でしたが。

むしろ、これらビックネームのプログラムの間に中途半端に放映されていた、お金を取らず(取れずに?)に会場周辺で演奏していた各国の無名ジャズミュージシャンの演奏の方がマトモでしたね。少なくとも、聞いている方は納得している。これはジャズにはまったく似つかわしくない巨大なホールでの演奏があまりに無味乾燥だったから、そう見えただけかもしれませんけど。

、、ということで来年も楽しみにしているので、この記事を参考にしてNHKへの抗議などに利用しないでくださいね。

「私の嫌いな10のジャズ・ミュージシャン」(その10.スイングジャーナルの「ジャズ・ミュージシャン」)

ついにスイングジャーナルが休刊するそうです。アドリブ誌も休刊中ですから、あの企業自体が倒産か廃業に到るかもしれません。いろいろな事実が出揃う前に、このシリーズの最終回にもともと予定していた内容を取り急ぎ書き出しておきます。

私が嫌いなジャズミュージシャンはスイングジャーナルが好きなジャズミュージシャンとほぼ同義です。「明るい」」「若い」「女性の」ジャズミュージシャンをグラビアで取り上げたり、「練習をしていない」くせに「ジャンルに拘らない」と称しながらも「平均点を狙う」演奏に終始する「便利な」ジャズミュージシャンを重用したり、「戦うはずが「東京ジャズの」毒に当てられた単に「うるさい」ジャズミュージシャンを名手などと囃し立てたりするのですから、それらの記事にすべて付き合えるほどに「鈍感な」愛読者はもともと存在していなかったのでしょう。

報道によれば広告主の根性の無さが休刊のトリガーですが、もともと読者を蔑ろにしてきた編集者やそれをクイモノにしてきた評論家やモノ書きが主犯です。「論争」とか「大賞」とか「玄人好み」とか、ジャズ愛好家ならドーデモいいことにやたらと労力を割き、私物化してきた数名の評論家や業界人には心底嫌悪感があります。故に休刊自体は何とも思いませんし、あのような輩が偉ぶる場がひとつ減るのは善き事かな、です。

それでも、スイングジャーナル(だけ)が持ち上げるジャズミュージシャン達に比べれば罪は軽い。音が聴こえてこないことをいいことに、モデルか俳優かの如き行状を晒し続け、内輪で褒めあい、愛好家の醒めた視線を感じていない、その感受性無き言動は実に情けないものです。(その正体を計らずも音だけ故に露呈させてくれたNHK-FMの「セッション20xx」と旧司会者・小川もこには感謝すべきかな?)

逆に、ジャズミュージシャンたるものカクアルベシということを際立たせてくれたことは確かですから、そのような基準が無くなるとこれからは見分ける(聞き分ける)のが大変になるかもしれませんね。

もちろん、スイングジャーナルなど20年近く購入したことは無く、ここ数年はCD購入も数枚のみで、コンサートやライブなどもっての外で、ジャズにお金はほとんど掛けてきませんでした。そんな私の趣味を支えている地元図書館にはジャズのライブラリーを増やしてもらい、FM各局にも放送時間の拡大を働きかけたいと思います。(嫌なジャズ愛好家ですね~)

小川もこを嫌う

この40過ぎの、「売り」であるはずのJazzへの知見が甚だ怪しく、それでもNHKには受けだけはいい、マンネリ化しているこの司会者(?)をあえて嫌うのは、トリスターノ学派を継承し、嫌われることを厭わずに初心者を無視した演奏を続け、オリンピック選手のように日々ぎりぎりまで切磋琢磨しているジャズ・ミュージシャン=平井庸一を侮辱したからです。

とりあえずはこちらをご参照ください。http://www.nhk.or.jp/session/guests/new.html

インタビューしたらJazzの本質に迫る(故に理解できない)話しが続いたからでしょう、曲の紹介を促されて平井庸一が語り始めると、「短く!」とはよく言えたものです。番組の編集者を含め、その後の演奏から「怨」を感じることすら出来ない程度の感受性ではダメですね。

大体、少し前まではゲストに演奏をさせながら、「次回は・・」「入場方法は・・」などと失礼極まりない「案内」を平然と被せていた程度の連中に多くを期待しても無駄なんですが、平井庸一の演奏が素晴らしかっただけに、これは芸術・文化への冒涜だと感じた次第です。

FMを聴いていて興奮してしまいました。

追記:小川もこ、とは一体何者なのか、お分かりの方は是非コメントください。

(後日譚です。この4月に小川もこはNHK-FM「セッション2010」をクビになりました。「皆様の声」や反省に基づいているからでしょうか、出演するジャズ・ミュージシャンやその演奏内容の質が一定水準以上となり、番組の編成やナレーションも取り上げているジャズに相応しく、思わずNHKに視聴料金だけでも払いたくなりました。また、小川もこは岡田奈々と同じ1959年2月12日生まれであることが分かりました。既に51歳です。これはどうでもいいことです。)

「私の嫌いな10のジャズ・ミュージシャン」(その9.東京ジャズの「ジャズ・ミュージシャン」)

「東京ジャス」は不当表示防止法に抵触するのではないでしょうか?ジャスを進化・発展させる取り組みとして従来のジャスの枠組みに真摯に挑戦するミュージシャンを取り上げるのであれば、「これもジャズかな~」と思われるような演奏があってもその文化的な価値はありますし、少々違和感があってもまあいいでしょう。しかし、既に他のジャンルで高い認知を得ているミュージシャンの「いつもの演奏」をあれだけ登場させる必要性や正当性がどこにあるのか分からない。ジャズというジャンルやそのブランド価値を誤用ないしは悪用しています。

上原ひろみを特別な存在にしているのは全く解せない。あの間抜けな表情はもともと見たくありませんが、個性と節操が無いジャズ・ミュージシャンはそもそも嫌いです。(クレジットなしに音楽そのものを聴いて誰かあてることができないジャズ・ピアニストの一人です。)そして、図に乗ってやたらと「やりたい音楽」を好き勝手にやらせ、それを放送しているのは公共放送として問題がある。マスコミやチックコリアが何だかんだと持ち上げるので本人も何か特別な才能がある勘違いをしているのでしょうね。女性のジャズ・ミュージシャンには矢野沙織とかこの手の輩が大勢います。(ところで、この10数年某宗教団体に嵌ってからのチックコリアの音楽にはほとんど共感できるものが無くなってしまいました。)

NHKが「音楽監督」と「現場監督」をやっているからか、あの(来場者に)無常に巨大なコンサートホールでやっているからか、ジャズミュージシャンが妙に行儀がいいの点も嫌いです。何か嬉しいことがあるのでしょう、いつもの毒気が抜け、平板な演奏に終始して、放送時間とテレビのフレームに上手く納まることだけを考えながらニコニコしているようなジャズ・ミュージシャンを見ていると、これは文化の破壊ではないかと思うほどです。

、、ということで「東京ジャズ」に出ている似非「ジャズ・ミュージシャン」を嫌っているのですが、NHKには早く放送してほしい。少なくてもテレビ番組としては他よりは面白いし、FMの録音を聴くよりは簡単に嫌いなジャズ・ミュージシャンを飛ばせる。

(長年の読者の皆様へ:1年数ヶ月振りにこのシリーズを再開しました。ジャズは毎日聞いているのですが、このシリーズでアタマが整理されて嫌う部分が研ぎ澄まされてきたためか、最近は臭気に敏感になって、「食わず嫌い」が直ぐにできるようになりました。以前のようにスイングジャーナルを信じてCDを買ったりライブに行ったりしていた頃のようなジャズの聴き方なら相当な無駄遣いが続いていたはずです。ますます充実してきた図書館やこの数年ほとんど番組の傾向が変わらないFMとそれを録音してくれるTalkMasterIIには感謝しています。)

「私の嫌いな10のジャズ・ミュージシャン」(その8.ジャンルに拘らないジャズ・ミュージシャン)

NHK-FMのセッション2008を毎週録音して聴いています。最初の国籍不明の雄叫びと司会者の無味乾燥なしゃべりを無視すれば、「最近の日本のジャズ」をそこそこに楽しむことができます。学校の音楽の授業で課題曲をこなすように清く正しく美しくバイオリンを奏でるや、文化祭の乗りで実力にバラツキのある身内バンドを引き連れて登場した親の七光りピアニスト、音だけ聞いても全然面白くない冗談音楽を軽くみているバンドのライブなど最近の「収穫」です。

本題ですが、「ジャンルに拘らない」ことを売りにしたバンドを組んでいる(二流の)ジャズミュージシャンがよく出てきます。これには猛烈な嫌悪感を抱きます。自分でやりたい音楽をやることは自由ですが、ジャズのリスナーを前提にしている(お金を取る)以上はその期待に応えてこそプロのはず。もちろん、その期待を上手に裏切ってもいい。ところが、その期待を<無視>して、「自分が本当にやりたかった」と称する陳腐な音楽を聞かせるとは何事でしょうか?実際そのほとんどは不思議と往年のニューミュージック(!)か環境音楽(!!)の範疇にしっかりと収まる。何か高尚なことを自分達がしているかのごとき言動も腹立たしい。

ジャンルというのは先人達がそのリスナーと試行錯誤を重ねながら築き上げたひとつの文化(成果)であり、芸術(一定の材料・技術・様式を駆使して美的価値を創造・表現しようとする人間の活動およびその所産)だと思います。そのジャンルというものをしっかりと踏まえながらジャズと向かい合っているリスナーの期待を蔑ろにするとは何と高慢な態度でしょうか。自分を神の如く語るに等しい。

どうしてもジャズとは無縁に「自分が本当にやりたかった」ことをしたいのであれば、まずはジャズミュージシャンという看板を降ろし、過去をソウカツし、この後の人生を賭けてほしいものです。そんな勇気も気概もリスク管理もできないのであれば、しっかりとジャンルに拘り、そこでの自分の役割と目標を明確にした仕事をしてほしいものです。

以下、特に酷かったので記憶に残っているバンドを列挙しておきます。

AZOO & 奥山みなこ

ガイアクアトロ

板橋文夫カルメンマキ太田恵資

kamakura

「私の嫌いな10のジャズ・ミュージシャン」(その7.平均点を狙うジャズ・ミュージシャン)

Manhattan Jazz Quintetは20数年前の発足当初から嫌いでしたが、その理由を説明できないでいました。例によって図書館から借りてきた「A列車で行こう~MJQ結成20周年記念」というCDを聞いていて、どうやらそれは平均点を狙っているからだということに気が付きました。

ビジネスとして(低いココロザシで)ジャズに取り組んだ場合、確実に儲けるためにはマニアを相手にせず、できるだけ多くの消費者を獲得すればよい訳ですから、平均点狙いがいいんです。プロデューサーもジャズ・ミュージシャンもレコード会社も「変なこと」はしないで、多数派や善人が喜びそうなものを粗製乱造するのが一番です。その結果、スリルがなくて平板な、思想がなくても一貫性だけはある、妙に安直で人工的なジャズができるという訳です。

もうひとつ、この取り組みの嫌いな点は過去の遺産をクイモノにしている点です。平均点を狙うにあたって効率的なのは、人気のありそうな名曲を取り上げ、ほどほどに「期待に応える」編曲やアドリブをすることです。「どこかで聞いたことがあるような・・」が売るためにはいいと思っているんでしょうね。その結果、Jazz Giantsの「部分」を引用しまくる。少なくても、ジャズに創造性を求めるリスナーはそのようなジャズには直ぐに臭気を感じ、遠ざかっていくことでしょう。

オーディオチェック用の音源のようなCDを聞きながらそんな事を考えている内に、私の考える平均点を狙うジャズ・ミュージシャンを列挙してみたくなりました。David Matthewsと同じPfなら、Kenny Drewや小曽根真。BaseならEddie Gometzや鈴木良雄、DrumsならAl FosterやShelly Manne。SaxだとBranford MarsalesやSonny Criss、TpはWynton Marsales以下多数。GuiterではBarney Kesselや渡辺香津美とかが平均点狙いに聴こえます。

一方、Lee Konitzのアドリブなんかは聞いていてツマラナイのですが、平均点なぞ全く気にしていない風で、(誰のコピーでもなく後継者もいないという点では)岡本太郎や岸田森のようなジャズ・ミュージシャンなので嫌いではない。(あれでもう少しやる気が感じられればMingusとかMonkのようになれたんではないでしょうか。)

もともと、自分自身が平均点とか3Σとかが大嫌いで、日々のバラツキを勝手に「移動平均」することで社会性があると思い込むようにしています。ですから、「空気を読む」(ことで多数派に迎合する)なんか最悪だと思うのです。そんな訳で平均点狙いのジャズは許せないのかもしれません。

「私の嫌いな10のジャズ・ミュージシャン」(その6.戦うジャズ・ミュージシャン)

2007年のジャズを総括する番組に必ず登場するWynton Marsalisの「自由への誓い」(原題From the Plantetion to the Penitentiary)をまた耳にしてしまいました。シラケル・ジャズです。ミュージシャンとしては嫌いではないMax RoachでもWe Insist!は(時代背景を踏まえても)ツマラナイ・ジャズです。ところが、「フォーバス知事の寓話」でのChales Mingusや「Minamata(水俣)」での秋吉敏子などは違和感無く、イケル・ジャズなのです。また、Satchmo、Elington、Milesなどのジャズには差別への抗議や体制批判が背景や要素としてあるとされていますが、ジャズ自体に「戦い」の臭気は無い。

この差はどこからくるのでしょうか?「黙って俺のメッセージを聞け」といった教条的なものや、アメリカの事は世界に通用するはずと考えている「グローバリズム」への嫌悪感は確かにあります。(それ以前に、私の英語のヒアリング能力不足もあることでしょうがここではちょっと脇へ、、。)

あえて踏み込めば問題意識の差はあるかもしれません。クリヤマコトはあるインタビューで素直に答えています。

Q. 影響を受けたミュージシャンは誰ですか?
A. (前略)
「むしろ身近な黒人の友人から最も影響を受けた」といつも答えてます。ジャズにおいては技術面以上に、魂の部分が重要。モダンジャズは差別と迫害の歴史の中から生まれた黒人ルーツの音楽なので、黒人社会の空気やイデオロギー、彼らにとっての音楽の意味、ジャズが生まれた理由などを理解すること何よりも重要だと思う。ぼくは身近なコミュニティーの中でいろんな経験をして、それを十二分に吸収できた。黒人に囲まれて黒人音楽やってると、鏡を見ない限り自分も黒人だと思ってる(笑)。そんな環境の中で今だに存在する人種差別とか、アメリカ社会の欺瞞とか、アメリカ黒人アーティストが皆考えることをぼくも一緒に考えてました。

Bill EvansやChick Coreaの説明が付かないのはご愛嬌として、言いたいことは大体分かる。でも、そこまでアメリカ黒人と一体化しないと理解できないなら、もうこれは「民族音楽」ですね。

話題を戻すと、最近よく分かってきたことですが、どうも他人がオモシロイことをこちらにオモシロイだろ~と強制してくる状況への嫌悪感が人一倍私は強いのです。カラオケがその典型ですが、オリンピックなんかのマスゲームも見ているとムラムラくる。

ジャズで「戦う」ジャズミュージシャンの音楽は、結局演奏している人間が一番オモシロイので私にはツマラナイのでしょう。(この点では、Pabloの垂れ流し系ジャムセッションや無名レーベルのフリージャズの多くがそうですから、「戦う」ジャズミュージシャンだけを嫌悪するのは「差別」かな。)

「私の嫌いな10のジャズ・ミュージシャン」(その5.うるさいジャズ・ミュージシャン)

中島義道の『うるさい日本の私』は、「私」が直接聞いた「善良な市民」による騒音との闘争記ですが、これは私が直接聞いた「無神経なジャズ・ミュージシャン」による騒音との遭遇記です。NHK-FMを(知る人ぞ知る)TalkMasterⅡに録音し、通勤時間に聞くのがささやかな楽しみなのですが、そこで初めて聞いた大坂昌彦というドラマーが今回のきっかけです。うるさくてだんだん嫌悪感が出てきたのです。

Roy Haynesというジャズ・ドラマーを評して、音自体はとても大きいのに少しもうるさく感じさせない(故に名手である)、という話しを聞いたことがあります。録音から察するしかないのですが、その音は確かに楽器の限界を引き出すが如くに大きそうで、手数(音数)も多いのですが、全くうるさく感じない。このことはElvin JonesもMax RoachもJack DeJonetteも(日本人なら猪俣猛や渡辺文男も)同じです。思うに、うるささとはもちろん音の大きさでは無く、手数の多さでも無く、無神経さ=感受性の低さに由来するものではないかというのが仮説です。

スイングジャーナル誌の人気投票で長年ドラム部門第一位という大坂昌彦ですが、その演奏は妙に目立つのです。でもよく聞くとそれは共演者を退けて、単に自分の主張をしているだけに思えてきます。別に自己主張が強いのは構わないのですが、ソロリストや他のリズムセクションの「主張」を無視して、対話のない一方的な(本人は良かれと思ってかもしれませんが)自己主張を続けられるとほとんど騒音と化します。加えて、これにはドラムセットのチューニングのセンスも大いに関係している。あのスネアの音は目立たせるためかやや低く外れ、余韻が強すぎる。

ドラマーに限らず、サックスならBrecker擬きやSanborn擬き、ピアノならEvans擬きもうるさい。「自己」主張が無いことに加えて、所詮は本家との比較で減点法でしか聞こえてこない。これはとてもうるさい(やりきれない)のです。なんといってもジャズなのですから、オリジナリティで勝負してほしい。そして、前回述べた「練習をしていない」が故の下手さ加減もうるさい(腹立たしい)。

そんなことを考えながらジャズを無作為に聞いてみると次々にうるさいジャズに遭遇します。特に最近の日本人のジャズ・ミュージシャンは全滅に近い。流行りのイタリア物も一部(例えば、Stefano Bollani)を除けば同じようなもの。もうジャズは進化を止めてしまったのかと思うほどです。

「うるさい」には、「お説教・嫌味などをあれこれ言う」とか「並みで満足せず高い水準をもとめてしつこいさま」とか「扱いに手間がかかり厄介である」といった意味もあります。(まるで哲学者のようですね。)そのような意味で「うるさい」ジャズ・ミュージシャンは嫌いではない。例えば、Milesを始め、Monk、Mingus、最近ではKeithやHadenはこれらに合致します。

ジャズ・ミュージシャンであれば、マーケティングではなく哲学に忠実であってほしいと思います。

「私の嫌いな10のジャズ・ミュージシャン」(その4.練習をしていないジャズ・ミュージシャン)

久々にこのシリーズを書き出すきっかけになったのは、たまたまFMを聞いて、Ron Carterというマイク真木のように幸運が重なっただけで今の地位を築き、それを維持している様を目(耳)の当たりにしたからです。どうしてRon Carterを「ピッチが合っていない(=耳が悪い)」と皆で批評しないのだろうか?これはそれをJazzyにわざと残しているJackei MacLeaneとは意味が違います。(*こちらのサイトでは正確に語られています。)

「練習」とは決してその量(時間)だけで語るべきではありません。あくまで「正しい練習」(質)が必要なのです。Ron Carterは恐らく「正しい練習」をする前に「幸運」がやってきてしまったのでしょう。かつてPAやRecordingの技術力不足からベースの音をあまり拾えなかった時代にはほとんど聞こえませんから何をやっていても許されたのでしょうが、VSOPぐらいからは怪しくなってきて、自己のバンドでソロを取るに到っては聞いていられない。0.25ピッチぐらいはずれている。この点ではEddie Gomezも同類で、マイクが悪かった頃(Bill Evansのメンバー時代など)はまだ露呈していなかったが、Steve Gattと組み出した頃からはその(悪)音が聞こえてしまっている。これをなんで批評家は指摘しないのだろうか不思議だ。

Art Blakeyも「正しい練習」はしていない。アルバム10枚中1枚はソロで、5枚中1枚はバックで、リズムが裏返ったり、拍が合わなくなっているのを誤魔化している。これは明らかな「正しい練習」の不足だ。こんなことはMax RoachやElvin Jonesなどではあり得ないことであって、当時の「職場の人間関係」に長けているだけであそこまで持ち上げる必要はないはずだ。

邦人のジャズ・ミュージシャンで言えば、何故か流行っている「戦後の日本のジャズ」の類で聴かれるほとんどは「練習」をしていない。冗談のような話しながら多分本当だと思うのは「(敗戦の)当時は楽器を持っていればプロになれた」ということ。それでも、何人かはそれでその後に「第一人者」になったり、ジャズで一旗上げた後にコメディアンへ転身したりしている。

「私の嫌いな10のジャズ・ミュージシャン」という設定の多くは、その感受性の低さに由来するものが多くあります。一応(直接・間接を問わず私から)お金を取るジャズ・ミュージシャンが、その演奏を音楽芸術と考えた場合に、ピッチとかリズムとかの基本要件に欠け、それが音楽性自体も損ない、かつ、本人とその周囲がそれを自覚していないという事態は私にとって嫌悪の対象でしかありません。

もちろん、「正しい練習」だけしていればジャズ・ミュージシャンとして大成するものではありませんが、基本要件を補うような音楽性の高さなどは稀であって、自己主張のためにまずは最低限の約束事項として正しく「発音」してほしいものです。私だって英語の発音練習は日々やっているんですから。

「私の嫌いな10のジャズ・ミュージシャン」(その3.若いジャズ・ミュージシャン)

『スイングジャーナル』という私が嫌いな(でもたまに図書館から借りてくる)ジャズ専門誌があり、その2006年6月号にこんな記事がありました。

「ジャズ神童伝説:リー・モーガンからエルダー・ジャンギロフまで」(トニー・ウイリアムス、ウイントン・マルサリス、上原ひろみ、フランチェスコ・カフィーソ)

私がスイングジャーナルを嫌いな理由は100以上あるのですが、「神童」という言葉の安売りが私の「若い」ジャズ・ミュージシャン嫌いを助長したことは間違いありません。それは置くとしても、和田アキ子が紅白に出てくる新人を半分も知らないと(今日のテレビで)豪語しているのと同様、この記事を読んで知っている、聴いたことがある<最近の>ジャズ・ミュージシャンはほとんどいませんでした。商業ジャーナリズムに踊らされていないからなのか、単に最近は図書館からCDを借りてきて聞いているだけからなのか、とにかく知りませし、聴いたことがありません。

そもそも二十歳そこそこのジャズ・ミュージシャンの演奏で感動などしたことはありません。はっきり言えば、どうも「若い」というだけで嫌悪感が先立つようです。ジャズに求めているものが私の場合には、陰影のある人生だったり、複雑な感性だったり、あるいは、品性のある緊張感だったりするので、「若い」のは逆に作用する属性なのでしょう。

楽器がよく鳴っているだの、超絶テクニックだの、○○の生まれ変わりだの(要はコピーが上手いこと)は、どうでもいい事で、理屈抜きに感動できないジャズはどんなに「素晴らしい演奏」との世評があっても私にはBGMか「再生装置」に過ぎません。実際、初期のリー・モーガンの薄っぺらなペットには何も感じないし、トニー・ウイリアムスの初期からマイルスのバンドにいた時ぐらいまではメトロノームのようにしか思えなかった。ブッチ・マイルスもカウント・ベイシーが亡くなってからの方がリズムに味が出てきた。たまたまテレビで観てしまった上原ひとみに到っては、お笑いスター誕生の決勝戦に登場した小柳トムやポップコーンのような「力み」しか感じませんでした。(ワカンネダローナァ~イェ~イ)

、、とは言え、たまにライブハウスで聴く「若手」(に見える)ジャズ・ミュージシャンの中には凄みのあるのがいて、思わずCDを買うべくメモに取ったりしてしまいます。残念ながら、CDで聴くと失望させら、暫くするとブックオフに持っていかれます。やはり私は「若い」ジャズ・ミュージシャンは嫌いなのでしょうね。