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カテゴリー「趣味」の3件の記事

WOWOWを嫌う

全米テニスは報道管制下にあるようです。WOWOWが独占放送しているためでしょう、試合の様子などがほとんど放送されません。

Wikipediaによると、「日本では1979年から1983年まではNHK総合テレビが独占放送したが、1987年から2004年までTBSテレビが製作を務めており、JNN系列全国28局ネットで放送していた。セールスはテレ・プランニング・インターナショナルとビデオプロモーションが担当しており、マスターズゴルフトーナメントと同様、アナウンサー提供コメントなしで放送していた。2005年からはWOWOWが独占放送している。」ということです。

趣味性の高いものであれば「独占放送」というのも商売として許容されるのでしょうけれど、野球やサッカーなどよりも競技人口の多い(と私は思っている)スポーツの世界大会をこのようなかたちで「独占」するとは何事でしょうか。TBSが世界バスケットの決勝戦を深夜にそれも録画で放送するのは、バスケットへの侮辱であり、日本の恥だと思って嫌悪感がありましたが、WOWOWという放送局の所業はそれを超えて「商業放送」という「資本主義のシステムそのもの矛盾」を感じます。

そもそも商売として考えた場合にも、一部だけ動画を放送局各社へ配信し、それを観せることで興味を引いておいて視聴者の獲得をした方がまだ儲かるのではないかと思います。もともと異端に近い業態故に他局から嫌われて「兵糧攻め」状態なのでしょうか?過去に何度も潰れかかった会社なのでリストラし過ぎてそこまでの「営業努力」に手が廻らないのでしょうか?松下電器産業出身の社長のセコサ故なのでしょうか?(そういえば、観ていないので伝聞でしかありませんが全米テニスはハイビジョン放送をしていないようです。これは映像で商売をしている会社としては怠慢です。)

有償のCS放送にも似たような事例はあります。一部のマニアしか見ないようなスポーツのコンテンツの「独占」は商売にしないと成立しないのでしょうから逆に必要なのかもしれません。そして、「置屋」のようなもので、好きな人がお金で解決すればいいのです。F1、プロレス、プロボク(と最近は呼びたくなりますね)、水球(、、これは無いか)。しかし、テニスのようなものは「公共性」が高いのですから、お金を払ったからといって囲ってはいけません。

まあ、地上波デジタルが本格化すれば、時間の問題でつぶれる会社なのでしょうから今更嫌ってみても虚しさが漂うものですが、それにしても恨みは残ります。あの網掛け映像のイヤラシサとともにどんなことがあってもWOWOWの手には乗らないゾという決意を忘れないようにします。

花火を嫌う-茨城の散弾銃男に同情する

私は花火が大嫌いです。あのような騒音、火事の元、そして環境破壊がなぜ許されているのか理解できません。その意味から、茨城の散弾銃男に同情しています。以下その記事です。

あぜ道の花火「うるさい」と散弾銃発射、67歳逮捕
茨城県警日立署は14日、同県日立市十王町、無職根本隆容疑者(67)を暴力行為と銃刀法違反の疑いで逮捕した。
調べによると、根本容疑者は13日午後7時30分ごろ、自宅近くの田んぼのあぜ道で、同市内の自営業男性(36)が花火をしていたことに腹を立て、自宅から散弾銃を持ち出し、実弾2発を発射した疑い。男性にけがはなかった。
男性は実家に帰省し、午後7時ごろから家族らと花火をしていたが、当時は1人だった。
根本容疑者は調べに対し、「うるさいので一度やめろと言ったが、やめなかった。男性には当たらないよう狙いをずらして撃った」などと供述しているという。(読売新聞) - 8月14日12時35分更新

「うるさい」と言われてからも30分は花火をしていたのですから、自営業男は相当に悪質です。それそこ暴力行為ではないか。また、テレビで観た限り、民家が隣接しているようなところで打ち上げ花火をしていたのだから、消防署はそこを問題にしてほしい。法律で禁止されているから、散弾銃を「ずらして撃った」としても逮捕されるのでしょうが、花火を「狙って撃った」ことで逮捕されたことがあるでしょうか?そもそも花火の軌道の精度などきわめて低いのですから、どこに落下するかなど予測できない(それも火が点いたまま)。こちらの方がよっぽど危険です。

もちろん、街中だけではなく、「まわりにひとがいないところ」(例えば、砂浜や高原の広場)でやるのも立派な「環境破壊」であることは言うまでもありません。

実は私は近所の狭い公園で花火を上げている集団を過去2度、消防署に電話して止めさせたことがあります。複数のマンションが隣接しているので、音が反響して煩いことに加え、ベランダなどに「着弾」すれば火事ですし、それまでの経験から、翌朝に近くを歩くと打ち上げ花火などの残骸がころがっている。これは、騒乱罪が適用されてもいいと思うのですが、少なくても、放火未遂であり、環境破壊(不法投棄)です。一方、止めさせられた集団(複数の家族連れや「集団交際」中の男女の若者)は、バツが悪そうに後片付けをさせられていました。消防署もすごいもので、消防車に職員を10人近く乗せてやってきて、到着後に整列し、その列をバックに代表者が花火集団に走っていって大声で止めさせました。

散弾銃男は一切反省していないとの報道もあります。ここは是非とも最高裁まで争って欲しいところです。その中で花火の反社会性やそれを支えるマジョリティの欺瞞を暴いて欲しいと思います。

「私の嫌いな10のジャズ・ミュージシャン」(その1.明るいジャズ・ミュージシャン)

またまた日経ネタですが、モダンジャズのミュージシャンとその演奏を紹介する記事が日経サイトに不定期に出ています。http://www.nikkeibp.co.jp/style/life/joy/jazzlp/060629_dizzy/

6/29Dizzy Gillespieということで思わずこのタイトルが浮かび、10回シリーズの構想も練ってしまいました。「明るい・・」に続いて、「女性の・・」「若い・・」「健康的な・・」「笑う・・」「金持ち臭のある・・」「練習していない・・」「副業の・・」「知性の無い・・」「品が無い・・」などを順不同不定期に予定しています。

まずは第1回として「明るいジャズ・ミュージシャン」について。

スイングジャーナルかジャズ批評でかなり以前、アメリカ合州国と日本で人気のギャップ(西高東低)が激しいミュージシャンとしてDizzy GillespieLionel Hamptonを挙げていました。ステージでの道化振りが日本のジャズ・ファンには不評との分析があったと記憶します。確かに、ジャズ・フェスティバルの録画などで観た、不用意な「明るさ」の押し売りは白ける。そして、外面を明るくして「熱い」のは、内面からのそれと違って、暑苦しく、迷惑に近い。「名盤」との振れ込みに騙され、LPレコードを買ってしまい、聴衆の盛り上がりとは裏腹に、プレイ自体が集中力を欠いた代物の連続で損をした記憶も蘇ります。Dizzy GillespieSalt Peanutsは貧相な曲想に加え、Salt Peanutsと連呼する意味が不明、Mantecaは演奏が不用意に長い。Lionel HamptonStar Dustでヨダレがかかりそうなアァ~アァ~という声もKeith Jarrettのような必然性を感じさせない。これらのレコードは聴くには耐えなかった。

そういえば、Lionel Hampton楽団に所属していて、Hamptonを尊敬していると発言していたMaltaというアルト奏者もいたが、あの妙な間を持った「明るさ」も嫌いだった。今どうしているのか?検索エンジンでもろくに出てこない。さいたまんぞうは出てくるのに。

何もジャズは暗くて陰気でなければダメかといえば、陽気というカテゴリーに入るCount BasieOscar Petersonなどは私も嫌いではない。この違いを考えてみると、Dizzy GillespieLionel Hamptonは「性格や表情に曇りがなく、晴れやか」に振舞っているようだが、どこか「心が晴れ晴れしいこと」を感じさず、その落差に陰険さを感じるのだと思います。ステージでは派手な身振りでファンへのサービスを過剰にしながらも、ステージが終わるとバンドのメンバーに暴言を吐くような。でも、Count BasieOscar Petersonはいつでもどこでもだれにでも紳士だろう(と思わせる人格がある)。

陰険と言えば、Miles Davisなどはステージであろうが路上であろうが私生活であろうが、一貫して陰険な感じを漂わせているのでそのジャズとの矛盾がない。しかし、Dizzy GillespieLionel Hamptonなどは喜怒哀楽をあからさまに出した演奏をしながら、表現としての重みが感じられず、その場だけの表面的な軽さを感じさせてしまう。ここに一種の欺瞞を感じるわけです。

「明るい」ということは、隠そうとするものがないか、表に出しても大丈夫な場合に限って有効な態度であって、取り繕った明るさは、液晶TVで白いレースのカーテンを見たときに実感するような(←やってみるとプラズマTVを買いたくなりますよ)、表現力の無さを露呈させるものです。

一方、このような「明るい」ジャズを、アメリカ合州国における大衆演芸だとする見方に接した事があります。あのように軽薄な振る舞いで、自分を客として楽しませようとする芸人を良しとする風土があるという主旨でした。金さえ払えば、客として扱い、こちらの機嫌を取ろうとする様を見ていて、自分が優位に立てるので気持ちがいいのでしょうね。これはいかにもあの国の大衆の感性に相応しい。

思うに、私がジャズを芸能ではなく芸術として鑑賞する対象だという前提で思考しているからこのようなギャップが出てくるのでしょう。

誤解なきように付け加えますと、私は「明るいジャズ・ミュージシャン」やその芸能を「悪い」といっているのではなく、「嫌い」なのです。このシリーズではこの「嫌い」を延々と追求します。