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カテゴリー「文化・芸術」の11件の記事

東京ジャズ2010を嫌う

BSに加入しないと全部見せないよ、というセコくて陰湿なテロップを「二画面表示」を使って非表示にしながら、東京ジャズ2010の放映を見ました。1年前に「東京ジャズのジャズミュージシャン」を嫌う記事を書きしたが、ますます嫌いになってしまいました。

まず、Part 3の最後の曲(つまりは最後の一曲)は一体なんだったのか。女性だけのコンボが頑張って(たぶん)男だけでは出来ないような、否、やって欲しくないような「無理な2曲」が続き、まあそんなもんでしょうと流していたところ、アメリカあたりの場末の安酒場が似合う、ロック調のほとんど作曲などしていない「音」に載せ、オトコはオンナのxxではなくて、yyを見るのョなんて叫んだかと思えば、腰振りダンスを披露し、挙句にバスドラの上に乗って、、、最後には「同僚」もほとんど白け切った無残な終わり方でした。高名なボーカリストの娘らしきこのお方を止めることは誰にもできなかったのでしょうか?(そういえば、かのMt. Fuji Jazz Festival」にもニヤニヤ笑いながら追悼曲を脳天気に歌っていた、高名なジャズ評論家の娘がいたな~。)

このブログの読者の方よりご賛同をいただいた、私の嫌いな「天才女子高校生サックス奏者」も無残でした。最初は練習したからでしょうか、類似の女流(!)若手(!!)サックス奏者よりは上手そうな雰囲気でスタートしましたが、アドリブの途中でリズムとコードの両方を外し、周囲のメンバーが心配のあまり各自の演奏の質を落としてバランスを取り、やっとテーマまで行き着いて終わりましたが、あんなものを放送する価値なんかあったのでしょうか?1曲だけ放映していましたから、他はもっと酷かったんでしょうね。あれならまだ、今どうなったか知りませんが、去年のヒノテルバンドにいた沖縄出身の少年ドラマーのほうが素直かつ健全でした。

渡辺香津美もクルセーダーズも、ベンチャーズの来日公演や(後期の)ジャイアント馬場の試合のような状態でしたし、ラリーカールトンもほとんど意味不明な競演を私と同じ年の日本人歌謡曲バンドのギター担当者としていました。まあ、上原ひろみがやっとクビになったのは吉報でしたが。

むしろ、これらビックネームのプログラムの間に中途半端に放映されていた、お金を取らず(取れずに?)に会場周辺で演奏していた各国の無名ジャズミュージシャンの演奏の方がマトモでしたね。少なくとも、聞いている方は納得している。これはジャズにはまったく似つかわしくない巨大なホールでの演奏があまりに無味乾燥だったから、そう見えただけかもしれませんけど。

、、ということで来年も楽しみにしているので、この記事を参考にしてNHKへの抗議などに利用しないでくださいね。

「私の嫌いな10のジャズ・ミュージシャン」(その10.スイングジャーナルの「ジャズ・ミュージシャン」)

ついにスイングジャーナルが休刊するそうです。アドリブ誌も休刊中ですから、あの企業自体が倒産か廃業に到るかもしれません。いろいろな事実が出揃う前に、このシリーズの最終回にもともと予定していた内容を取り急ぎ書き出しておきます。

私が嫌いなジャズミュージシャンはスイングジャーナルが好きなジャズミュージシャンとほぼ同義です。「明るい」」「若い」「女性の」ジャズミュージシャンをグラビアで取り上げたり、「練習をしていない」くせに「ジャンルに拘らない」と称しながらも「平均点を狙う」演奏に終始する「便利な」ジャズミュージシャンを重用したり、「戦うはずが「東京ジャズの」毒に当てられた単に「うるさい」ジャズミュージシャンを名手などと囃し立てたりするのですから、それらの記事にすべて付き合えるほどに「鈍感な」愛読者はもともと存在していなかったのでしょう。

報道によれば広告主の根性の無さが休刊のトリガーですが、もともと読者を蔑ろにしてきた編集者やそれをクイモノにしてきた評論家やモノ書きが主犯です。「論争」とか「大賞」とか「玄人好み」とか、ジャズ愛好家ならドーデモいいことにやたらと労力を割き、私物化してきた数名の評論家や業界人には心底嫌悪感があります。故に休刊自体は何とも思いませんし、あのような輩が偉ぶる場がひとつ減るのは善き事かな、です。

それでも、スイングジャーナル(だけ)が持ち上げるジャズミュージシャン達に比べれば罪は軽い。音が聴こえてこないことをいいことに、モデルか俳優かの如き行状を晒し続け、内輪で褒めあい、愛好家の醒めた視線を感じていない、その感受性無き言動は実に情けないものです。(その正体を計らずも音だけ故に露呈させてくれたNHK-FMの「セッション20xx」と旧司会者・小川もこには感謝すべきかな?)

逆に、ジャズミュージシャンたるものカクアルベシということを際立たせてくれたことは確かですから、そのような基準が無くなるとこれからは見分ける(聞き分ける)のが大変になるかもしれませんね。

もちろん、スイングジャーナルなど20年近く購入したことは無く、ここ数年はCD購入も数枚のみで、コンサートやライブなどもっての外で、ジャズにお金はほとんど掛けてきませんでした。そんな私の趣味を支えている地元図書館にはジャズのライブラリーを増やしてもらい、FM各局にも放送時間の拡大を働きかけたいと思います。(嫌なジャズ愛好家ですね~)

小川もこを嫌う

この40過ぎの、「売り」であるはずのJazzへの知見が甚だ怪しく、それでもNHKには受けだけはいい、マンネリ化しているこの司会者(?)をあえて嫌うのは、トリスターノ学派を継承し、嫌われることを厭わずに初心者を無視した演奏を続け、オリンピック選手のように日々ぎりぎりまで切磋琢磨しているジャズ・ミュージシャン=平井庸一を侮辱したからです。

とりあえずはこちらをご参照ください。http://www.nhk.or.jp/session/guests/new.html

インタビューしたらJazzの本質に迫る(故に理解できない)話しが続いたからでしょう、曲の紹介を促されて平井庸一が語り始めると、「短く!」とはよく言えたものです。番組の編集者を含め、その後の演奏から「怨」を感じることすら出来ない程度の感受性ではダメですね。

大体、少し前まではゲストに演奏をさせながら、「次回は・・」「入場方法は・・」などと失礼極まりない「案内」を平然と被せていた程度の連中に多くを期待しても無駄なんですが、平井庸一の演奏が素晴らしかっただけに、これは芸術・文化への冒涜だと感じた次第です。

FMを聴いていて興奮してしまいました。

追記:小川もこ、とは一体何者なのか、お分かりの方は是非コメントください。

(後日譚です。この4月に小川もこはNHK-FM「セッション2010」をクビになりました。「皆様の声」や反省に基づいているからでしょうか、出演するジャズ・ミュージシャンやその演奏内容の質が一定水準以上となり、番組の編成やナレーションも取り上げているジャズに相応しく、思わずNHKに視聴料金だけでも払いたくなりました。また、小川もこは岡田奈々と同じ1959年2月12日生まれであることが分かりました。既に51歳です。これはどうでもいいことです。)

「私の嫌いな10のジャズ・ミュージシャン」(その9.東京ジャズの「ジャズ・ミュージシャン」)

「東京ジャス」は不当表示防止法に抵触するのではないでしょうか?ジャスを進化・発展させる取り組みとして従来のジャスの枠組みに真摯に挑戦するミュージシャンを取り上げるのであれば、「これもジャズかな~」と思われるような演奏があってもその文化的な価値はありますし、少々違和感があってもまあいいでしょう。しかし、既に他のジャンルで高い認知を得ているミュージシャンの「いつもの演奏」をあれだけ登場させる必要性や正当性がどこにあるのか分からない。ジャズというジャンルやそのブランド価値を誤用ないしは悪用しています。

上原ひろみを特別な存在にしているのは全く解せない。あの間抜けな表情はもともと見たくありませんが、個性と節操が無いジャズ・ミュージシャンはそもそも嫌いです。(クレジットなしに音楽そのものを聴いて誰かあてることができないジャズ・ピアニストの一人です。)そして、図に乗ってやたらと「やりたい音楽」を好き勝手にやらせ、それを放送しているのは公共放送として問題がある。マスコミやチックコリアが何だかんだと持ち上げるので本人も何か特別な才能がある勘違いをしているのでしょうね。女性のジャズ・ミュージシャンには矢野沙織とかこの手の輩が大勢います。(ところで、この10数年某宗教団体に嵌ってからのチックコリアの音楽にはほとんど共感できるものが無くなってしまいました。)

NHKが「音楽監督」と「現場監督」をやっているからか、あの(来場者に)無常に巨大なコンサートホールでやっているからか、ジャズミュージシャンが妙に行儀がいいの点も嫌いです。何か嬉しいことがあるのでしょう、いつもの毒気が抜け、平板な演奏に終始して、放送時間とテレビのフレームに上手く納まることだけを考えながらニコニコしているようなジャズ・ミュージシャンを見ていると、これは文化の破壊ではないかと思うほどです。

、、ということで「東京ジャズ」に出ている似非「ジャズ・ミュージシャン」を嫌っているのですが、NHKには早く放送してほしい。少なくてもテレビ番組としては他よりは面白いし、FMの録音を聴くよりは簡単に嫌いなジャズ・ミュージシャンを飛ばせる。

(長年の読者の皆様へ:1年数ヶ月振りにこのシリーズを再開しました。ジャズは毎日聞いているのですが、このシリーズでアタマが整理されて嫌う部分が研ぎ澄まされてきたためか、最近は臭気に敏感になって、「食わず嫌い」が直ぐにできるようになりました。以前のようにスイングジャーナルを信じてCDを買ったりライブに行ったりしていた頃のようなジャズの聴き方なら相当な無駄遣いが続いていたはずです。ますます充実してきた図書館やこの数年ほとんど番組の傾向が変わらないFMとそれを録音してくれるTalkMasterIIには感謝しています。)

ブックオフを嫌う

別に創価学会系だ(という噂がある)からではありません。学会にカネが流れた(?)不正経理でも、エセエコロジスト清水国明の親族が経営していたからでもありません。

中島義道やドラッカーのハードカバーであろうが、勤務先を称えた「提灯本」であろうが、皆50円か100円なのです。目ざとい輩が(その本の価値を分かろうとしないこの企業が)専門書や希少本を数百円買い取って数百円で売っているのを買い付け、ネットで数千円で売って一ヶ月に数十万も儲けるのです。そして、当然、「文化の破壊者」として多くの作家からは嫌悪されている企業なのです。

そこで、今日は地元の図書館に読まなくなった(読みたくなくなった)本を10冊ほど持ち込み、寄贈しました。自宅の書斎をすっきりさせて、自分の「古本」を公僕を使って公共空間に持たせておけるんですよ。これが本格化すれば、「ブックオフつぶし(はずし)」になるになるはずです。

明日も「文化の創造者」になるべく10冊ぐらい持ち込む予定です。(最近粗製乱造気味の中島義道本が数冊入っています!)

落書きを嫌う

手抜き貼り紙を嫌う記事を以前アップしましたが、最近話題の落書きというものにも以前から強い嫌悪感を持っています。

自分の名前を書いて「参上」したり、下手な絵を描いてゲージュツしたり、単に線を引いて暇をつぶしたり、、、そんなことで達成感を得ようとしているのですからこれは怠慢です。器物破損に問われることを覚悟でやるなら、もっとしっかりとやったらどうか。名前だけではなく自分のブログのURLを紹介するとか、絵ならば「買いたい」と思わせとか、線を引くにもしっかりと周囲との整合を取って欲しい。そのようなことをしないまま、リスクに見合う成果も無いのに達成感を得ようとは全くの堕落であり、横着です。

言葉としても、婦女暴行を「イタズラ」などと表現するのと同様に誤用がある。あれは「落書き」とか「いたずら書き」とはではなく、単なる器物破損なのです。あの程度の内容ならもっと見下すべきでしょう。そして、その対象となった器物の価値を下げた分程度はしっかりと償わせることが対策としては有効ではないかと思います。晒し者にするものいい。

油性インクを使う程度の知恵があるのなら、それに相応しい内容であってほしいものですが、世の中の「落書き」はまったくただのガキなのです。

私が落書きをするなら、「NHKは英語や野球を使って米帝国主義に国民を洗脳するのは止めろ」とか、「おねだり農民から税金をしっかり取れ」とか、「天皇制が残っているから部落差別がなくならないのだ」とかをしっかりとチャート化して主張したいところです。もちろん、このブログがあるのでそんなことはしませんが、、(今は)。

「私の嫌いな10のジャズ・ミュージシャン」(その6.戦うジャズ・ミュージシャン)

2007年のジャズを総括する番組に必ず登場するWynton Marsalisの「自由への誓い」(原題From the Plantetion to the Penitentiary)をまた耳にしてしまいました。シラケル・ジャズです。ミュージシャンとしては嫌いではないMax RoachでもWe Insist!は(時代背景を踏まえても)ツマラナイ・ジャズです。ところが、「フォーバス知事の寓話」でのChales Mingusや「Minamata(水俣)」での秋吉敏子などは違和感無く、イケル・ジャズなのです。また、Satchmo、Elington、Milesなどのジャズには差別への抗議や体制批判が背景や要素としてあるとされていますが、ジャズ自体に「戦い」の臭気は無い。

この差はどこからくるのでしょうか?「黙って俺のメッセージを聞け」といった教条的なものや、アメリカの事は世界に通用するはずと考えている「グローバリズム」への嫌悪感は確かにあります。(それ以前に、私の英語のヒアリング能力不足もあることでしょうがここではちょっと脇へ、、。)

あえて踏み込めば問題意識の差はあるかもしれません。クリヤマコトはあるインタビューで素直に答えています。

Q. 影響を受けたミュージシャンは誰ですか?
A. (前略)
「むしろ身近な黒人の友人から最も影響を受けた」といつも答えてます。ジャズにおいては技術面以上に、魂の部分が重要。モダンジャズは差別と迫害の歴史の中から生まれた黒人ルーツの音楽なので、黒人社会の空気やイデオロギー、彼らにとっての音楽の意味、ジャズが生まれた理由などを理解すること何よりも重要だと思う。ぼくは身近なコミュニティーの中でいろんな経験をして、それを十二分に吸収できた。黒人に囲まれて黒人音楽やってると、鏡を見ない限り自分も黒人だと思ってる(笑)。そんな環境の中で今だに存在する人種差別とか、アメリカ社会の欺瞞とか、アメリカ黒人アーティストが皆考えることをぼくも一緒に考えてました。

Bill EvansやChick Coreaの説明が付かないのはご愛嬌として、言いたいことは大体分かる。でも、そこまでアメリカ黒人と一体化しないと理解できないなら、もうこれは「民族音楽」ですね。

話題を戻すと、最近よく分かってきたことですが、どうも他人がオモシロイことをこちらにオモシロイだろ~と強制してくる状況への嫌悪感が人一倍私は強いのです。カラオケがその典型ですが、オリンピックなんかのマスゲームも見ているとムラムラくる。

ジャズで「戦う」ジャズミュージシャンの音楽は、結局演奏している人間が一番オモシロイので私にはツマラナイのでしょう。(この点では、Pabloの垂れ流し系ジャムセッションや無名レーベルのフリージャズの多くがそうですから、「戦う」ジャズミュージシャンだけを嫌悪するのは「差別」かな。)

「私の嫌いな10のジャズ・ミュージシャン」(その5.うるさいジャズ・ミュージシャン)

中島義道の『うるさい日本の私』は、「私」が直接聞いた「善良な市民」による騒音との闘争記ですが、これは私が直接聞いた「無神経なジャズ・ミュージシャン」による騒音との遭遇記です。NHK-FMを(知る人ぞ知る)TalkMasterⅡに録音し、通勤時間に聞くのがささやかな楽しみなのですが、そこで初めて聞いた大坂昌彦というドラマーが今回のきっかけです。うるさくてだんだん嫌悪感が出てきたのです。

Roy Haynesというジャズ・ドラマーを評して、音自体はとても大きいのに少しもうるさく感じさせない(故に名手である)、という話しを聞いたことがあります。録音から察するしかないのですが、その音は確かに楽器の限界を引き出すが如くに大きそうで、手数(音数)も多いのですが、全くうるさく感じない。このことはElvin JonesもMax RoachもJack DeJonetteも(日本人なら猪俣猛や渡辺文男も)同じです。思うに、うるささとはもちろん音の大きさでは無く、手数の多さでも無く、無神経さ=感受性の低さに由来するものではないかというのが仮説です。

スイングジャーナル誌の人気投票で長年ドラム部門第一位という大坂昌彦ですが、その演奏は妙に目立つのです。でもよく聞くとそれは共演者を退けて、単に自分の主張をしているだけに思えてきます。別に自己主張が強いのは構わないのですが、ソロリストや他のリズムセクションの「主張」を無視して、対話のない一方的な(本人は良かれと思ってかもしれませんが)自己主張を続けられるとほとんど騒音と化します。加えて、これにはドラムセットのチューニングのセンスも大いに関係している。あのスネアの音は目立たせるためかやや低く外れ、余韻が強すぎる。

ドラマーに限らず、サックスならBrecker擬きやSanborn擬き、ピアノならEvans擬きもうるさい。「自己」主張が無いことに加えて、所詮は本家との比較で減点法でしか聞こえてこない。これはとてもうるさい(やりきれない)のです。なんといってもジャズなのですから、オリジナリティで勝負してほしい。そして、前回述べた「練習をしていない」が故の下手さ加減もうるさい(腹立たしい)。

そんなことを考えながらジャズを無作為に聞いてみると次々にうるさいジャズに遭遇します。特に最近の日本人のジャズ・ミュージシャンは全滅に近い。流行りのイタリア物も一部(例えば、Stefano Bollani)を除けば同じようなもの。もうジャズは進化を止めてしまったのかと思うほどです。

「うるさい」には、「お説教・嫌味などをあれこれ言う」とか「並みで満足せず高い水準をもとめてしつこいさま」とか「扱いに手間がかかり厄介である」といった意味もあります。(まるで哲学者のようですね。)そのような意味で「うるさい」ジャズ・ミュージシャンは嫌いではない。例えば、Milesを始め、Monk、Mingus、最近ではKeithやHadenはこれらに合致します。

ジャズ・ミュージシャンであれば、マーケティングではなく哲学に忠実であってほしいと思います。

「私の嫌いな10のジャズ・ミュージシャン」(その2.女性のジャズ・ミュージシャン)

「女性の」でも「女流」でもいいのですが、そのような枕言葉のつくジャズ・ミュージシャンを私は嫌います。

ゴルフでよく名前の後に「プロ」を付けて「青木プロ」などと呼んでいますが、これはプロとアマの区別をする必要がある(程度に差が無い)からでしょう。この人プロなんだからヨロシク、と同時に言っている訳です。同様に、「女流〇〇」という表現を使う時は、女性なのにここまでがんばっている、女性だって分からないぐらいでしょう(けれど男のようなパフォーマンスがないのはゴメンネ、ヨロシク)といった響きがあります。

そこでまず例外から始めます。秋吉敏子。あのレベルまで行くと、男女は関係なく、ひとりのジャズ・ミュージシャンとしての強烈な個性を感じますから、そもそも「女性」といった接頭辞は全く必要なく、実際だれもそんな事は言わない。商業主義とは無縁で過小評価された時期がありますが、とにかくあのBig Bandの音は唯一無二でその存在感は凄い。Duke EllingtonCount Basieに十分匹敵するのではないでしょうか。

もうひとつ、全てのジャズ・ボーカリストは別としたい。この言葉、ジャズは形容詞に過ぎず本質はボーカリストです。これには男女の区別はあるがそれぞれに固有の味わいがある。故に私は嫌いではない。

さて本題ですが、実は、具体的に嫌いなジャズ・ミュージシャンの名前を挙げるのは少々難儀なのです。Jone Coltraneの未亡人Alice Coltrane (Harp) Gil Evansの娘のSue Evans (Ds) のような七光り系は「論外」としておきましょう。Stan GetzのグループにいたJoanne Brackeen (Pf) のように名前すら記憶が定かでない方もここでは別にします。このブログの読者は誰も分からないでしょうし、私も怪しい。

では、だれを嫌っているのかといえば、アルバム表紙写真で「美形」を売りにしている輩、特にここ数年やたらに出回っている日本人女性のジャズ・ミュージシャンです。元々がお稽古事やクラブ活動として始めたからでしょうか、PfSaxが多いようです。クラッシクからの転向者も多いのですが、兼業ではない点はまだ良しとしましょう。もちろん演奏は押し並べて面白くない=下手。

その昔(今でも?)、スイングジャーナル社が発刊しているアドリブ誌の人気投票には「ルックス」という恐ろしい項目があり、カシオペアの櫻井哲夫が一位だった時期もあったようですが、これはその読者層(古い言い方ですがアンノン族と大差ない)を想定していたのかもしれません。なので、男にも「見かけで勝負」の輩がいますから女性差別はいけません。男女とも「美形」を売りにするジャス・ミュージシャンを私は嫌います。ジャズは目を瞑って聴くものです。(注:カシオペアはジャズではない、という真っ当な意見には従います。単にほかの「一位」を忘れただです。)

また、「美形」とは無縁に、ジェンダーフリー的なイデタチの方(例:高瀬アキ)もたまにいますが、これも嫌いです。音を聴いて特別スゴイ訳ではないのに、その容姿を見るとスゴイのですから興醒めします。

少し脇道に反れますが、ジャンダーフリーと言えば、最近スゴイことになっている日経のブログを発見しました。ご興味のある方どうぞ。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/person/20060710/105975/

さて、女性に社会思想家や哲学思想研究者はいても、哲学者はいない、という主旨の中島義道の主張がありますが、同じような意味合いから女性ジャズ・ミュージシャンというのは一種の形容矛盾だと思っています。女性ボーカリストはいても、女性ジャズ・ミュージシャンはいない。これは要するに女性らしいジャズというのは無いと私は考えているからです。同様に男性らしいジャズもない。ジャズの歴史自体がほとんど男性の世界そのものだからです。これは大相撲に女性の関取がいないのと同じような話しです。女性らしい相撲って想像できますか?オゾマシイ~

それでも職業選択の自由はあるのでしょうから、別に構わないのかもしれませんけれど、私としては特別な才能が無い女性があえてジャズに身を窶すのは刹那さを感じます。丁度今やっている女性のサッカーWカップの試合を見るような刹那さです。

…とは言え、こちらで紹介されたように前途有望な方には是非ともこのような状況は打破していただきたいものだなと思いますね。

http://amiciziajp.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/post_1.html

あそこまで律儀にCharlie ParkerCannonball Adderleyを研究しつくして、「再生」してくれた男性を知りません。あれは一種の女性らしいジャズかも。(人生まで真似しないようにして頑張ってねぇ~。)

「私の嫌いな10のジャズ・ミュージシャン」(その1.明るいジャズ・ミュージシャン)

またまた日経ネタですが、モダンジャズのミュージシャンとその演奏を紹介する記事が日経サイトに不定期に出ています。http://www.nikkeibp.co.jp/style/life/joy/jazzlp/060629_dizzy/

6/29Dizzy Gillespieということで思わずこのタイトルが浮かび、10回シリーズの構想も練ってしまいました。「明るい・・」に続いて、「女性の・・」「若い・・」「健康的な・・」「笑う・・」「金持ち臭のある・・」「練習していない・・」「副業の・・」「知性の無い・・」「品が無い・・」などを順不同不定期に予定しています。

まずは第1回として「明るいジャズ・ミュージシャン」について。

スイングジャーナルかジャズ批評でかなり以前、アメリカ合州国と日本で人気のギャップ(西高東低)が激しいミュージシャンとしてDizzy GillespieLionel Hamptonを挙げていました。ステージでの道化振りが日本のジャズ・ファンには不評との分析があったと記憶します。確かに、ジャズ・フェスティバルの録画などで観た、不用意な「明るさ」の押し売りは白ける。そして、外面を明るくして「熱い」のは、内面からのそれと違って、暑苦しく、迷惑に近い。「名盤」との振れ込みに騙され、LPレコードを買ってしまい、聴衆の盛り上がりとは裏腹に、プレイ自体が集中力を欠いた代物の連続で損をした記憶も蘇ります。Dizzy GillespieSalt Peanutsは貧相な曲想に加え、Salt Peanutsと連呼する意味が不明、Mantecaは演奏が不用意に長い。Lionel HamptonStar Dustでヨダレがかかりそうなアァ~アァ~という声もKeith Jarrettのような必然性を感じさせない。これらのレコードは聴くには耐えなかった。

そういえば、Lionel Hampton楽団に所属していて、Hamptonを尊敬していると発言していたMaltaというアルト奏者もいたが、あの妙な間を持った「明るさ」も嫌いだった。今どうしているのか?検索エンジンでもろくに出てこない。さいたまんぞうは出てくるのに。

何もジャズは暗くて陰気でなければダメかといえば、陽気というカテゴリーに入るCount BasieOscar Petersonなどは私も嫌いではない。この違いを考えてみると、Dizzy GillespieLionel Hamptonは「性格や表情に曇りがなく、晴れやか」に振舞っているようだが、どこか「心が晴れ晴れしいこと」を感じさず、その落差に陰険さを感じるのだと思います。ステージでは派手な身振りでファンへのサービスを過剰にしながらも、ステージが終わるとバンドのメンバーに暴言を吐くような。でも、Count BasieOscar Petersonはいつでもどこでもだれにでも紳士だろう(と思わせる人格がある)。

陰険と言えば、Miles Davisなどはステージであろうが路上であろうが私生活であろうが、一貫して陰険な感じを漂わせているのでそのジャズとの矛盾がない。しかし、Dizzy GillespieLionel Hamptonなどは喜怒哀楽をあからさまに出した演奏をしながら、表現としての重みが感じられず、その場だけの表面的な軽さを感じさせてしまう。ここに一種の欺瞞を感じるわけです。

「明るい」ということは、隠そうとするものがないか、表に出しても大丈夫な場合に限って有効な態度であって、取り繕った明るさは、液晶TVで白いレースのカーテンを見たときに実感するような(←やってみるとプラズマTVを買いたくなりますよ)、表現力の無さを露呈させるものです。

一方、このような「明るい」ジャズを、アメリカ合州国における大衆演芸だとする見方に接した事があります。あのように軽薄な振る舞いで、自分を客として楽しませようとする芸人を良しとする風土があるという主旨でした。金さえ払えば、客として扱い、こちらの機嫌を取ろうとする様を見ていて、自分が優位に立てるので気持ちがいいのでしょうね。これはいかにもあの国の大衆の感性に相応しい。

思うに、私がジャズを芸能ではなく芸術として鑑賞する対象だという前提で思考しているからこのようなギャップが出てくるのでしょう。

誤解なきように付け加えますと、私は「明るいジャズ・ミュージシャン」やその芸能を「悪い」といっているのではなく、「嫌い」なのです。このシリーズではこの「嫌い」を延々と追求します。

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