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カテゴリー「学問・資格」の5件の記事

TOEICを嫌う

2年ほど前に800点を超え、その後に(勤務先の異動時に)十分その元を取ってからは一度も受験していませんが、TOEICが漢字検定並みに怪しいという記事を読んでいろいろと想いだしました。(これはきっと数週でゴシップとして広がるでしょうね。選挙もあるからもう少し時間が掛かるかもしれません。)

http://eng.alc.co.jp/newsbiz/hinata/2009/08/toeic_15.html

TOEIC受験料自体で自腹を切ったことはありません。外資系企業の性として、TOEIC受験を(会社に実費請求できるようにして)奨励してくれました。管理職の登用基準にするなど「活用」する訳ですからこれは当然ですね。私の場合、10回以上をタダ受験しました。残念ながら、少し前に経費削減を理由に会社に請求できなくなりましたが、丁度私が810点を取った後だったので、個人的にはどうでもいいことです。

むしろ、TOEIC受験に一種の精神修養として取り組んでいた頃が懐かしく、(これは自腹の)TOEIC専門塾での4日間集中講座などは無性に愉しかったです。そしてあの神経質でストイックな受験会場の雰囲気は他ではなかなか得られない修養です。母校を含む、近隣の大学の教室での試験というのもなかなか得がたい体験でした。「本末転倒」もここまでくると清々しいものがあります。

そもそも企業がTOEICぐらいで本人の英語のコミュニケーション能力を見極めようなどというのは実に安直であり、手抜きでしょう。そんなものは、英語で自己紹介させ、Q&Aを5分もすれば直ぐに見抜けるはずです。にも関わらずTOEICのスコアがまかり通っているというのは経済合理性とヒトノミチに反していると思います。

、、ということで、TOEICが嫌いなのではなく、TOEICを嫌わないという怠慢が続いている社会や会社(には愉しませてもらった時期もあります)が嫌いなのです。屈折してるでしょう!

失敗学を嫌う

新車をぶつけられました。「緊急」経済対策で25万円戻ってくる祟りなのでしょうか、理不尽極まりない状況に陥っています。

詳しくは保険の査定中なので書けませんが、機械式の駐車場で不注意氏(以下F氏)の操作したパレットが私の車のドアを破損したのです。私も危うく怪我をするところでした。問題はその直後、F氏は一切詫びることなく、「死角にいたあなたにも責任はある」と言い始めたのです。交通事故直後に責任を認めるような発言をするな、と教習所や保険会社で教えられたからなのか、非日本人的行動様式に染まってきたからなのか、単に「言い訳人生」の末なのか、傍目には極めて非常識な言動に出たのです。(本当は詳細を書きたいところですが、、、。そしてF氏を嫌うことは月並みすぎてオモシロくないのでやめておきます。)

さて、保険会社や弁護士などと協議をする中であらためてベンキョーしたのですが、どうも畑村教授の失敗学は役立たない。むしろ個人にとっては不利益になることがわかりました。

このような個人の問題では「原因の究明と責任の追及を分ける」ことができる第3者というものは世の中には存在せず、失敗学が頭にあるとむしろ原因を究明する過程で責任の追及が疎かになります。本気で原因を究明すると責任が分散し、対策はいくらでも考え付いて実行もできるのですが、意識の中で当事者に責任を取らせることが難しくなるのです。法律も社会常識も原因=責任であって、その原因や責任もできるだけ絞ったほうが責任も取らせやすいので尚更です。

保険会社から「第3者機関」として派遣されるリサーチ会社というものがありますが、これも甚だ怪しく、当事者間の過失相殺割合を決めるだけで(私の場合は0:100のはず、、)、原因を究明すること自体には関心がない。警察は当然民事不介入ですから、余計なことを言うのは越権行為であり、効力もありませんし、再発防止などそもそも視野にない。損害賠償を請求するとなると、その時間と費用という「経済性の問題」は別としても、今回のようなケースでは共同不法行為を証明することまで必要になり、責任の分散が避けられない。

原因の究明など被害にあった個人にとっては本来どうでもよく、責任者を特定して賠償させることに集中したほうが得策なのです。これを失敗学は阻害します。一度失敗学を修めてしまうと本気で責任の追及をすることができなくなり、「人を嫌うこと」を阻害することにもなってしまいます。イヤァダ~と思う日々です。

「英語の授業は英語で行うのが基本」を嫌う

ここ数週地味に話題となっている<英語の授業は英語で行うのが基本>との「御触れ」について、英語では人一倍苦労している私として思うところです。

まずはこのテーマに関して、記憶に残った投書の要旨を列挙します。

・所詮高校の授業を通じて、音楽や文学などで世界に通用する能力など誰も期待していないのに英語だけにそれを求めるのはおかしい。(数週前の朝日新聞の投書欄より、、ウロオボエ)

・私は英検2級以下の英語教員に「英語で授業を行え」ということは「人権侵害、生活権侵害」であると思っています。(中略)公立高校全部について「英語で授業」がどの程度可能かを英語コミュニケーション能力のある調査員により具体的に調査し、その調査結果を公表すべきであると思います。 (「あらたにす」への志村英盛・横浜市・75歳からの投稿)

・6年間もやって英語がしゃべれない、とよく言うが、6年間ずっと英語漬けなら別であるが、週に3時間を年間40週、6年間続けても720時間にしかならない。これはネイティブの赤ん坊が1日8時間英語を聞いているとして、実に90日分である。生後90日の赤ちゃんが英語をしゃべれないのはあたりまえなのである。つまり、絶対的な学習時間の不足が原因で、英語力がないから会話もできないのである。(「あらたにす」への広島三郎・広島市東区・60歳・大学教員からの投稿)

・多様な仕事があり、求められる能力もそれぞれだ。これから学ぶ生徒全員が英会話ができなければまずい、ということはない。(中略)高校は義務教育ではないのだから、個々の事情や就きたい職業との関連で学習できるカリキュラムにしてもよいのではないだろうか。(今日の朝日新聞への大学生からの投書)

、、「御触れ」を出した役人とその取り巻き連中の「貧困なる精神」をそれぞれ見事に批判しています。

また、中島義道の『英語コンプレックス脱出』という本には英語教師やその教育のあり方についてこんな件があります。

、、自分の下手な英語を断じて恥じないという態度を徹底的に身につけ、それを生徒に伝えるべきである。修学旅行先で、英米人に出会ったら、引率の英語教師はまず彼らにごく自然に日本語で話しかけるという模範を示すべきであろう。そして、彼らが日本語が解せない場合には、自分を英語教師と名乗ったうえで、その(スタンダード・イングリッシュから見ると)おそまつ至極なジャパニーズ・イングリッシュを、けっしてへらへらしたりつべこべ言い訳したりせずに堂々と生徒の前で披露すべきであろう。(中略)生徒たちはこうした教師の態度から英語と日本語の正しい関係を学ぶであろう。そこにまたとない国際語としての英語教育の場が開かれるのである。

英語帝国主義との闘争が前提とはいえ、「教師達にほとんど過酷とさえ言える要求をしている」のは英語教師(という職業を選択したこと)への逆恨みもあるのではないかと思える節もあります。でも、これはこれで至極効果的な「生きた英語をしゃべる」教育になると思いますし、実際必要なことです。(私も英語が下手な上司がアメリカ人とその英語で口論しているのを目の当たりにして随分「進歩」しました。)

さて、当たり前の話しかもしれませんが、勉強など必要に迫られなければしないのが性であり、これは各種のモチベーション理論も証明しているところです。大学受験があるから、生徒も教師も必死なのであって、英語がある程度できないと仕事にならないから私も必死だった時期があったのです。(TOEICには依存症的に嵌った時期もありましたけど。)将来使うかもしれないから、、程度では普通のひとはモノゴトに真剣には取り組まないものです。

もし、国家戦略として国民の英語力を本気で引き上げたいのであれば、国会はすべて英語で審議を行い(そういえば今の外務大臣は英語が棒読みだった)、NHKの番組の半分は英語にさせ(のど自慢の司会者は英語だけ使って進行するとか、大相撲の千秋楽は英語放送だけにするとか)、例の給付金を申請する書類はすべて英語にする、など自らも痛みを分かち合いながら、国民(大人)が英語で大混乱するぐらいの事態をまずはつくり出すべきでしょう。そんなことは私は望んでいませんが。

最近の例で言えば事故米の販売や給付金の年収制限などと同様、政策遂行上の難問を現場に「権限委譲」するのは為政者の姑息な姿勢として共通したものを感じます。紅葉マークみたいに半年ぐらいで潔く挫折してほしいものです。

米語を嫌う

「正月を嫌う」という記事を1年前に書きました。その中で<新年にあたって「何を止めるか」を決めて実行する>として、「満員電車に乗ること」「2次会への参加」「一日12時間以上の労働」を列挙しました。振り返れば、積極的には避けてきたものの、完全には止めていません。でも、その前に「完璧主義」は止めるようにしたので、まあいいかな~と思っています。

今年は「英語」に関連して止めたいことがあります。「米語」の使用です。

「英語」は仕事で毎日使うのですが、その際、アメリカの俗語(例:Honcho、Jazz Ups)やアメリカ社会を背景にした慣用句(例:Take a rain check on sth)を使わないだけでなく、だれかが使っても分からないフリをするということを始めてみたいと思います。同じようなことは「元号」で学生時代から続けています。(書類に元号が書いてあればそれを消して西暦で書きます。特に、今の元号を書いたり、発声したことは一度も無く、その「成果」で今年が元号で何年になるのかを知りませんが大して困りません。)

「英語」は「イングランド語」が起源ながら、「米語」が軍事・経済・文化の侵略に合わせて勢力を拡大し、その総仕上げとしてグローバル化の名のもと、「米語」を通じた世界制覇を完成させようとしています。アメリカ資本(勤務先)からの「搾取」と合わせて、今年はこの侵略へのゲリラ戦として米語排斥活動をやってみたいと思います。(ちなみに、日本人と韓国人ぐらいしか受験しないTOEICですが、辞書で<米俗>や<米略式>と出るようなコトバを問題文に使うと主催団体に猛烈な抗議があるそうです。健全なことです。)

、、とは言え、正調のBritish Englishを使おうというのではありません。英文法における「米語」の手の抜き方は利用(悪用)しながら、<米俗>を排すことで、文化性の無い、数式のように味気のない「英語」を目指そうとするものです。一方、アジアの同胞との活動、、ではなく仕事が多い私として、発音は各国の「方言」を互いに尊重することで統一戦線を張り、米語と帝国主義の粉砕せんとするものです。

戦果は後日報告します。

追記:TalkMasterで通勤時間に聞いている『NHKビジネス英会話』は、CIAが作らせているのではないかと思うほどに米語とアメリカのビジネスの話題ばっかりです。これは一度抗議しないといけませんね。(NHK受信料は相変わらず払っていないので門前払いを食らうかも、、。)

AERA Englishで中島義道が対談!

「そもそも意思疎通など不可能で『通じるわけがない』と思えば楽です」との副題でパックンと中島義道が対談をしています。その一部を引用しますと、、。

哲学とは? Well ...philosophy to me is the use of language accurately or precisely.

英語コンプレックスは? I tell the native English speakers at international academic meetings that they must speak slowly and in short sentences.  Otherwise, it's not fair those who are not native speakers.

やはり英語ができないと、、 Yes, so you have to take a practical approach.  And don't forget that it is impossible to understand each other in the first place.

、、などなど期待通りの内容でした。(注:対談は日本語。記事にはパックンが翻訳監修した英文を併記。)

TOEICの点数を上げることに血眼になっている会社員・学生を主な読者にしている雑誌にしては随分と思い切った記事に読めます。しかしよく考えると、TOEICの点数を上げることはそこそこにやっておけばいいのであって、英会話などは所詮適当に通じればいいのだ、といったことを中島義道を通じて主張しているようです。

この雑誌の役割として、TOEICの点数が(会社での昇進や留学などに)必要な方には、無駄のない学習情報、つまり、傾向と対策、戦略と戦術、そしてモチベーションを授けることがあります。ある意味、英語が嫌いな(でも使わざるを得ない)人向けにAERA Englishは存在しているように思えてきました。

ところでTOEICに対する自説ですが、例えば600点が管理職昇進の基準だとすれば、600点までは「点取り虫」に徹するのが正しく、そして、それ以降も英語学習をするのであれば、TOEICの点数を目安にしながら進捗を測ればよいと考えています。(この主旨で900点ぐらいまでは有効との説を最近は信じています。)

もちろん、英語が好きな方を別とすれば、多くの日本人にとって英語などは本来使わなくて済むならばその方がいい訳です。「英語圏の人間は非英語圏の英語を理解する義務がある」というある英語教師の意見は全面的に賛成しています。

そういう私ですが、600点は以前に超えながらも、依存症的にTOEIC受験を続けていまして、TOEIC受験指導専門学校にも休暇の時には通ったりしています。何か手段と目的を取り違えているように思えてくるときもありますが、何もしないよりはいいと思って続けています。