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テニスを目的にする輩を嫌う

たかがテニスなのですが今日は熱い(暑い)一日でした。午前9時から午後6時まで、草テニスの男子ダブルスを計6試合やり、その後テニス仲間とさらに熱い時間を3時間ほど過ごして先ほど帰宅したところです。

以前書いた通り、私のテニスに対する取り組み方は苦行僧のそれです。安易な小技には一切走らず、試合に勝つなど二の次。自らの修行(練習)に法り、どこまでも自己(が習得したワザを試合で)実現すべく心身を削りながら(確かに痩せます)、周囲の目も気にしないで自己との対話を続けます。ダブルスでもその姿勢は同じで、ペアのことはあまり考えないようにしますし、下手でもあまり気になりません。

ところがテニス仲間の一人にそのような姿勢を強く批判する方がいて、飲んでいるうちに2時間近く熱い議論を戦わせてしまいました。(一般には絡まれているというのかもしれません。)要点はシンプルで、テニスは勝つことが目的であり、そのためには手段を選ばず、すべてを尽くすべきだという主張に対して、学生時代にテニスをやってきた連中(ちょっとプレイを見れば分かります)や毎日テニスをやっている連中(試合慣れだけはしているのこれもすぐ分かります)を相手に社会人になってから始めた週末プレーヤーが勝てるとは思えないのだから、不用意に相手の土俵には乗らず、試合を通じて少しでも「自己実現」を達成すればよいのではないかと主張し続けたのです。

平行線の議論を通じて納得したのは、テニスを目的と見るか、手段と見るかの大きな違いです。別にテニスでなくても、例えばブログも同じです。アクセスやコメントを増やすこと(=自己顕示ないしは他者からの承認)自体が嬉しくて目的化している方と、あくまで何かを実現するためのひとつの手段として粛々と書かれている方はすぐに分かります。(商売にしようと虚しい努力をしている方も確かにいますがここで類型化したい対象とは別世界なので捨象しておきます。)

そして、テニスをやる意味合いは様々で全く構わないと思うからでしょう、テニス(で勝つこと)を目的にするのは当然であり、そうしなければいけないという主張を他人に押し付ける方には猛烈な嫌悪感を持ちました。ニコニコしながらこちらは言いたいことはすべて伝えたので、もうペアは組んでもらえないでしょうね。これも「豊かな」人生のひとコマです。(補足するなら、その方は元国体選手だったのでこちらの姿勢を邪道に感じたのでしょうね。)

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コメント

本日の手記に、何となく「相撲が廃れ行く理由」を垣間見た気がします。
まあ、相撲だけではなく、様々なスポーツや、様々な芸術もしかりでしょう。

運動や芸術活動は「得手の良し悪し」ではなく「参加する意義」が本論であった筈。
全てを「勝利する事で得る報酬」を得る事を良しとする風潮。
今回ワタシはそれを嫌わせて頂きたいと思います。

芸術に人が感動しなくなったのではなく、心が込もらないものばかりになった。
単に「格好良さ」を優先し、人が感動する物を輩出出来なくなった。
身近なものを例えれば「歌」がそれを現しています。

大変申し訳ない事を付記させて頂きますが・・・
ワタシは「格好付けすぎるスポーツに見えた」テニスを好ましく思っていませんでした。
でも、FADさんの「本当の格好良さ」が見えた気がして、テニスを見直しました。

ゆさこをゐちさん
こちらにまでコメントをいただけるとは思いませんでした。
草テニスの試合を別の視点から見ていると、あまり上手くないにも関わらずやたらに試合に出てきて、勝つために(品性を含む)全てを捨て去ってポイントをひとつでも多く取ろうとする方がいます。そのような方と同じ土俵で競って勝っても少しも嬉しくはありません。美しくないからです。
また、「格好良さ」と「美しさ」は大きく異なりますね。その本質は鍛錬の有無ではないかと思っています。
そして、プロは美しくて強いから感動を呼ぶのであって、お説の通り、単に(勝負)強いだけでは人を感動させることはできませんよね。

追記:私も学生時代には全盛だったテニスが大嫌いで一切関わりませんでした。その後の人生でここまでテニスに時間を割いているのは「修行」としてのテニスに目覚めたからだと思っています。

 ご無沙汰しています。
 自分のが更新できるほど調子がいいわけでないので、ちょこっと顔出しました。
 勝ちか、負けか、それ以外に我々の存在価値を表すものはない。その人もそんなかんじなんでしょうか。
 そもそも、「敗者」が居るから「勝者」が存在できるわけで、
 その「勝者」には「敗者」への大きな責任が生じる。わたしはそう思っています。
 だから、「勝つことはそれだけ責任が重いことだ(敗者に手を差し伸べることも含めて)」と思っています。

 勝ちに固執する人間は、負けに対してのそこはかとない恐怖を感じているんだろうなあと、敗者慣れした私は思うのです。
 
 しかし、物事の楽しみが、「勝つ事」ってのも困ったもんですね、しかもそれを他人にまで押しつけるってのは。
 社会性があまりにも偏狭だなあと思った次第。
 このブログに書かれたこともFADさんにとっての大きな修行だろうなあ、などと勝手に思ってみたり。 (汗)

こんばんわ、ブログ拝読させていただきました。 キーワードは”苦行僧”ですね。 小生は子供の頃からまったくのスポールオンチでしたが、会社員になってはじめたマラソンではまさに"苦行僧”そのものです。 作曲でも同じです、苦行のなかにすばらしい世界が見えるのですね。 これはちょっとしたトリップ経験です。  そもそもテニスには”軟弱”という形容詞に代表されるチャラチャラしたイメージがあります。どうしてもそうなっちゃうんですね。 大学の同好会のテニスサークルなんて絶対にスポーツじゃないと思いますね。 あれは女子大生との出会いを求める元祖出会い系サイトみたいなものじゃないですか?

eric_breaさん
コメントありがとうございます。
実は、その元・国体選手は最近体力の衰えもあり、勝てない試合が続いています。「敗者慣れ」していないからでしょう、自問自答するようにその主張を語っていた場面も何度かありました。ご指摘の通り、「勝者慣れ」していた方にとって、「そこはかとない恐怖」を持っていて、その裏返しで私の主張を認めたくなかったのかもしれませんね。
また、お察しの通り、私にとってこのブログも「修行」そのものでして、夏バテ気味でダレテしまい、ここ暫く記事の更新ができていません。(この週末には何とか、、。)

Amiciziaさん
苦行は仕事以外で積むべき、と最近は特に強く思うようになりました。マラソンはその点では理想的な苦行ですね。(瀬古を想いだします。)
前にも記事にしましたが、テニスは社会人になってから始めました。学生時代には、あまりに軟弱なスポーツだったのでむしろ関わりを避けていました。
そのテニスの軟弱さや出会い系の要素を40~50才になっても引き摺って、大した練習もしないで昔のワザに頼って試合ばかりして、「合コン」を楽しみにやってくる輩というのがいますよ。もちろん、今の学生の中には軟弱な連中はたくさん見かけますよ。そういった連中との試合で「自己実現」ができたときは修行の成果を実感できますね。決してそれが目的ではないのですが、そういった連中の前では益々「自己実現」に走ってしまうものです。

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