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日曜日の群集を嫌う

今日は日曜日の群集を嫌いたいと思います。

息子と買い物で都内某所へ。短時間でしたが、私も息子も久々に群集(買い物客や商業関係者)のなかで行動したために疲れてしまいました。感受性が鋭いためでしょう、「群集」の中のひとりひとりの存在を無視することができず、その群集と不可分な商業放送や接客などの騒音、雑多な街並みも気になります。それらが次々と無神経に降り懸かってくるので、(感受性の定義である)「外界の印象を受け入れる能力」の限界を超えてしまい、直に心身を翻弄するからだろうと考えます。

確かに最近、同じ日曜日でも午前中の空いている時間帯で、落ち着いた雰囲気の百貨店に行った時には、私も息子もそのような事はなかった記憶があります。今日は、商業放送を店の内外に大音量で流すBカメラや、「浮動的で無統制な集まり」(群集の定義の一節)そのものの雑居ビルSS60などに行ったので疲れたのでしょう。

元々中華街やインドなどのアジア的な街並みは嫌いでは無かった私も、この歳になって、(その経緯は省略しますが)どうやら感受性を研ぎ澄してしまったために「疲れる」ようになったものと理解しています。これは成長なのでしょうか、退化なのでしょうか?多分前には戻れないと思うので、私としては「成長した」ことにしておきたいという気持ちがあります。

一方、そのような喧騒の中でも平然としていられる「群集」とは一体何なのでしょうか?本当に「賑やかな街」への嫌悪感や疲労感は無いのでしょう?「水の低きに就くが如し」で、公共の場では無神経に振舞ってよいとする(さらに言えば「ハレの場」としてそうすべきだという)日本人のマジョリティが、日曜日の街を占拠しているからだと思えてきます。これは平日の人がほとんどいない時に同じ場所に行くと差が歴然としてよく分かります。平日の午前中だと店内放送が虚しく響き(実際に音量も小さい?)、店内は「静かさ」が勝っていますので疲れません。そして、「群集」も不思議と「静かな」言動に終始しています。人の数が増えるとその場にマジョリティが形成され、(客側でも店側でも)無神経な輩から羽目を外し始めに周囲もどんどんそれに合わせて行くようになるのではないでしょうか?(この現象は、私が大嫌いな「祭り」でも「ディスコ」でも「懇親会」でも同じと考えます。)

こんな仮説(屁理屈)は、社会心理学ではとうに何らかの実証を伴って理論化されているのかもしれませんが、私にはこうやって自分の言葉にする事で改めて認知でき、気持ちも落ち着き、「疲れ」も癒されました。正確に嫌うことは大切です。

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コメント

”●●を嫌う”訓練をされてますね!すばらしいですね。次は何を嫌うのか楽しみにブログをチェックさせていただきます。 このブログを読むと精神のカタルシスを感じますね。人を嫌うということは非常に健全なことです、しかも中島義道が言うように”意味もなくきらう”ということ。私も会社関係で嫌いな人間がいますが、そいういう連中が自分の人生を豊かにしてくれていると思うと感謝さえしたくなります。

伴野さん
コメントありがとうざいます。
実はもう少し(一般には)マジメな内容を「メンタフダイヤリー」というサイトでも同じハンドル名で始めたところです。
https://www.mtop.jp/diary
あちらでは何度か自分の記事やコメントが掲載されなかったので、マジメな内容だけにしています。
近いうちに「メンタフダイヤリー」自体も、こちらのブログで嫌う予定でいますのでご期待下さい。

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